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翠輪堂-日記-

文月あずさ@JADERINGSもしくはAzusa-Fの趣味的日常記録/不定期更新

25年目のおめでとう、そして、卒業之詞《ことば》
相変わらずの事前投稿です。
なんか事象変異が起こったりして、でもこの日記が残っていたら、それは事故です(永劫回帰どーん!)って事で一つよろ。
休日にブログやらツイやら書けなくなって久しいので……スマヌ。





子供のアン卒(アンパンマン卒業)やプリ卒(プリキュア卒業)じゃないですが、もう子供っぽいーとか嫌いーとかになって離れたのではなく「もう自分はそんなに執着しないかな」となったコンテンツはいくつかある。
例えば6あたりのDQとか。FFだったら9以降。

好きだったものをディスるような離れ方をする人はぼちぼち見てきたけど、自分としては少なくとも一度面白いと思って追いかけてきたお話に砂掛けるほどの事はなくて。

だから卒業。
テレビで取り上げていて、ちょうど時間が合えば見たりもするけれど、多分配信系は告知見かけてもわざわざ時間取らないかなとか、その程度の、ゆるい「好き」になる感じ。
睡眠時間削ってまで時間を費やさない、そんな軽さになったもの。

そういう意味だとゼノは、もう四半世紀もずっと留年してて、ずっと自分の心の中で離さないくらいの執着がまだまだ続いているんだけれど、最近ふと気がついた。


ゼノギアスに関しては、じわりじわりと「卒業」が近づいている感がある。


描きたい二次創作はまだいくらでも沸いてくるし、ゼノコンで熾火付けられたからピアノも改めて弾きたいんだけど、何を差し置いても関わりたいか、というと、そこまでの執着や情熱はゆるゆると消えていっている気がする。

それは、新しい物語を出す気配も能力もないのに次から次へと高額グッズばかり出して、切り捨てた過去をしらばっくれ続けているスクエニのやり口に食傷気味だからかもしれない。
光田さんや田中さんや石垣さんが関わっているのだけが救いであるとはいえ、自分がゼノギアスに惹かれたのは、彼らや当時のスクウェアで揉まれて生まれ出ていた多大なる才能が渾然一体となった【ゲーム】というあの形だから。総合芸術としての【ゲーム】だったから。
それゆえにグッズだけ出されてもなー、という事で、結局2000年代以降に出たものはゼノコンBD以外はほとんど手を出せていない。ゼノコンそのものも家族の事情があって結局申し込む事すら叶わなかったし。グッズが出ても飾る場所も自由もないし、自分に何かあった時に家族に処理任せるにはフィギュアとかプラモとかはかなり大変だと思ってるから迂闊に手を出せない。
セイレーンはムイムイ文書の事を知った後でガンプラ好き旦那に見せたら「かっけえええ!」と勝手に買ってきたのでぶっちゃけタナボタ。所有者は旦那という気楽さもあり。そういう意味だとフィギュアだけを家に入れるのはちょっと無理だな~(amiiboはこっそり買う)

フィギュアヘッズとかFFBEとかシアトリズムとかあったじゃん、とも言われそうだけど、やっぱり私の中ではゼノは【物語】なのよ。物語が伴わなくて、ただキャラがお祭り的に出ているだけなのは、やっぱりなんか違う。
忘れられてないのは嬉しいなあと思いつつも、所詮は期間限定イベでしかないやん!とか、2008年の10周年の時は何もしてなかったの忘れてないからな!?なところもあったりする。(OperationRainfallが無かったらこういう事態になってないよね?とも思うし)
→参照:ぼくらは「ゼノブレイド」が遊びたいんだ! 海外のJRPGファンが「オペレーション・レインフォール」を開始|ねとらぼ|2011年06月29日 09時42分|池谷勇人,ITmedia


それとは別に、ゼノって今はモノリスソフトの力であの当時描けなかった物語の果てを少しずつ見せてもらえているから、それで自分がほどよく満たされているのかもしれない。
そういう意味だと卒業というより昇華なのかもね。
次があるから縋らなくても良くなった。
『ダブルクロス』でいうところの、もうタイタスになってる状態なのかも。前に↑このツイした時「あれ?ゼノは続いているんじゃ?」って引用リプもらったけど、『ゼノギアス』も『ゼノサーガ』も『ゼノブレイド』も、全部ゼノではあるけれど、それぞれが違う命を持った子だという意識がなんとなくある。
作る環境に翻弄されながら、磨き上げられてきた別々の形。
それぞれの、生まれ出た時期の価値観をその身に宿した、あの時代にしか出せなかった作品。
その魂の輝きは同じ。でも、纏う物語は色とりどりの、もの。

つながっているようで、つながっていなくて、つながっていなくても良くって。

だから、別の、別々の物語として、ちゃんと読んであげたい気持ちが強い。
過去の作品に縛られず、外《Xeno》に飛び続ける物語を。

もしかしたらかつて描きたくて描き切れなかったものはこれだったのかも、なんて、新しいものの中にその残滓は見つけることがあるけれども、でも基本は、先の事など囚われずその時その時の全身全霊が形になったものだと思っている。
過去の物語に囚われすぎるのは受け手側の傲慢なのかもしれない、そんな恐怖に駆られることもある。


だからこそ。


もう一度ゲームを通しでやれる自由があったなら。
物語にのめり込める時を得られたならば。

自分はもう一度ゼノギアスに執着することになるのだろうか?

そしたら。
その時にまた【入学】すればいいよね、って、思ってる。




とはいえ、Switch ベタ移植来るよ言われたところで、クロノクロスのように配信だけで売られても、DLはマルチゲー優先・ソロゲーや家庭内で推してる人間が一人だけの場合はパッケ買いが原則の我が家じゃ遊べないしねー。
ニサンバグがそのまま残ってるの見て「あーマジにベタ移植なんだ」ってニヨニヨする機会を捨てるのは惜しいんだが。
参照:Xenogears_バグ|うぐぺ
それよりも。
PSが動くうちに、またやりたい。やれる人生になりたい。
取り貯めたセーブデータも半分飛んじゃってるから、せめて若絡みイベ前は取り戻したい。

* * *

とても25周年合わせのおめ投稿ぽくないですが、ここ数年、自分の事がやれなさすぎて、いろいろ絶望しかかってるせいだと思います。
元気出したいなー。それにはゲームしたいなーなーなー。
(ハタラキカタカイカクで中学生が毎日13時に帰宅する世界線に住んでいる身には贅沢すぎる望みです。ええ、わかってるんよ)



あ、でも、過去絵はいくつか発掘しているから、ツイ向けに加工出来たらUPするくらいはやるよ~。
ちょっと元気出します。うん。


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