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翠輪堂-日記-

文月あずさ@JADERINGSもしくはAzusa-Fの趣味的日常記録/不定期更新

第二回TIGRAFレポート_5 スペシャルシンポジウム[再掲]
東京国際CG映像祭――Tokyo International Computer Graphics Festival――TIGRAF。

 東京国際映画祭の一分科として2002年より開始された、コンピュータグラフィックスを用いた映像表現に関するシンポジウム。

 映画の特殊効果として用いられるそれらとともに、日本においては『ゲーム』というメディアにおいて、映画をも凌ぐ著しい発達を続けている。

 そういった観点から実施された2003年11/4~7開催第二回TIGRAFのうち、2003年11月5日開催「ゲーム特集」のプログラムを一通り観覧し、そしてレポートにまとめてみました。

 このページは、Azusaによる、TIGRAF講演のレポートであり、かつてAzusaの個人サイト【翠輪堂】のギャラリーページ(檀林)にて掲載していた記事の再掲となります。
(サイトそのものはinfoseekのホームページサービス終了により消滅、記事自体もWEBから消滅した状態になっておりました)

 会場では一般来場者による録音等は禁止されており、そのため、Azusaが主観的に取捨選択し、書きとめたメモ、及びAzusa自身の事前知識等がレポートの基本となっております。

 そのため、同じく会場にいた方でも、全く違う印象/違う感想/違う言葉への反応をされており、自分が体験したものとは異なるといった印象を抱かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、その点はご容赦願います。

 それと、もし万が一出演されていた方・公演中に名前の挙げられていた方に関しまして、お名前等が間違っていましたら、大変申し訳ございません。
 間違いを見かけられた方は、Azusa方へご連絡いただけると幸いです。

※再掲にあたり、2015年現時点での追加情報、当時曖昧だった事柄に関しての情報を若干追補しております。
(作品そのものも、おそらく10年前だと覚えてない~というケースも多いと思ったので、Amazonアフィリエイトからの商品画像等を引用して説明に添えております)
2003年当時は「共通言語」だった事柄も、10年経った今では曖昧になっていると思った為行った修正ですが、補った部分はAzusaの私的感想&解説部分だけであり、発言内容に関してはほぼ変更を加えておりません。ご了解いただきたいと思います。



 モデレーター:渡辺氏を筆頭に、モノリスの杉浦氏、スクウェアの直良氏、カプコンの三並氏、そして水口氏が卓を囲んだスペシャルシンポジウム。演目は確か「ゲームにおけるCGの今後を語る」みたいな感じだったはずなんだが、三並氏と水口氏の講演を受けてか、話の流れは、ゲームにおけるプロデューサー論へと。いや、実際、直良氏はどうだかわからんが、少なくとも杉浦氏は、生粋のクリエイター上がりの「プロデューサー」ではなく、日本のゲーム制作環境においては珍しい、映画やテレビで言うような立場の「プロデューサー」だしね。「クリエイターでもない自分が、なんでこの会へ呼ばれたのかがわからない」なんて言ってたところからも、彼は「作り手」ではなく、「作品を世にproduceする人間」として意見を出していました。これはある意味、いいCGを、いい作品をゲーム業界が生みだしていく上で今一番の障害となっているのが、その作品を世に出す為の組織・システムの未熟さ、という事なのかな、と思わせられる、そんなシンポジウムでした。

それでは、書き取りメモの状況からどうぞ。ちなみに( )は主に筆者Azusaによる補遺部分となっています。……実際に発言した事も含めているけど、メモが残ってない部分が主なので。




(渡辺)ゲーム業界=CG業界
でもゲームにおいて必要なのは、クォリティの高い絵を作ることではない
「絵のきれいなクソゲー」という評価は、世の中に確かに存在する評価。


Q:感動したCGシーンは?
(杉浦)ナムコ『Winning Run』('88頃):逆送が出来たりする部分に3D感があった

(直良)『FINAL FANTASY 7』('95):(手前味噌になってしまうが、と前置きした上で)自分たちで作り上げたCGに鳥肌が立った。
それまで2Dで描いていたものを3Dにしたがために、自分たちが描いたものから少し遠のいた印象もあったが、一度やっとけ、と思いやりあげた。
ファイナルファンタジーVII
(三並)ナムコ『リッジレーサー』:急にCGのベクトルが上がった時代だった。『ゼビウス』を初めてやった時と同じくらいのインパクトを感じた。
RIDGE RACERS
(水口)Pixer LightStudioのビデオ等の最初に入るCG('86頃)
(編注:Pixerの一番最初の短編アニメーション『ルクソーJr.』のアレ)
描かれたライトスタンドの動き一つで、そのライトスタジオの片方がお母さん、もう片方が子供だとわかるところがすごい。(ものを「見せる」)基本がそこにある。

(水口)ゲーム:リアルタイムで絵を制御し、見せる技術
その誕生はアニメが原点にある
デフォルメ、感情的に何かを伝える手段

CGをきれいにすることによって、ゲームがよくなっていくわけではない。
(それは、他のメディアがすでに経験してきたこと)

生理的に、本能的に訴えてくる物を作ることが必要

(三並)ゲーム:まずは物を抽象化して表現することからはじまり、ハードの進化によってリアルになっていった

ゲームは(表現手段としては映画やTVと違ってたかだか30年ぐらいの歴史しかない)生まれたばかりのもの→今いろいろな事を試している最中

ゲームで泣けるものは少ない
たまにそういうものがあったとしても、ボタンを押すことですぐにリリースを余儀なくさせられる

感情的に揺さぶるもの:こういう人達に届けたい、として演出
 →会社によって風味が出てくる

(直良)自分が「おっ」とひっかかったものが、他人にとってどう見えるか
普段、自分が(どんなものに「おっ」とひっかかるように)出来上がってきているか
→・そういったものをあざとく狙っていく
 ・共通言語を増やしていく
 ↑それぞれを持つ物を積み重ねていく

ゲームを作ること:昔は、色数を減らしたり増やしたり等で一生懸命だったが、現代では、もっと(一線)引いた立場で(作品を眺めて)やっていけるようになった。

(杉浦)現在、自分の会社では、スクウェアに負けじと、大会社にいた時にできたコストがない状態で作品を作っている。その戦いは今でも続いている。

(編注:スクウェア(エニックス)の中でもいわゆる「ナンバーズ」(シリーズを重ねているソフト。FF等)に携わっている直良氏が、そういう「余裕」をもった状況で作品制作が出来る、ゲーム制作の現場でも特別有利な場所にいる事を指摘する意図を持って言ったと思われる。現に、杉浦氏は、「ナンバーズ」以外に着手し、その表現を支持されつつも、その次に取りかかれなくなった高橋氏をスクウェアから「脱藩」させて会社設立を行わせた立て役者であり、そこまで余裕の持てない、自分の作品を表現することに精一杯な現場を見ているからであろう)


(三並)ゲームにお金をかけるのが当たり前の時代
だが、それ以外(絵をきれいにするためにお金をかけたソフトを作ること)の部分で壁にぶつかったときどうするか。

自分は、移動時間(大阪の本社から東京へ出てくる時の新幹線)の合間でも、常に素材を探して必死になっている状態である。

(杉浦)ゲームが売れてコストが掛けられるからゲームのCGが進化する

(水口)100億円かけている映画と10億円かけているゲームソフト

掛けているお金に差があるのに売上に大差がないのはどうしてか

ゲームは100億かけると制御出来ない
シナリオが、絵が、キャラがよくても、遊んでみて面白くなかったらダメ

遊びの原型ができていて、それで楽しめるものが出来れば(売る側としては)そこで安心、というような安定感があるのはFFくらい

それに変わる新しいインタラクティブな物は生み出すことが出来るか

(渡辺)名前がないところから新しいものを作るシステムがゲームでは確立できていない。
どこにどれだけのお金をかけたらクォリティがどうなるか、ということがゲームでは計れるのか。

(三並)(アメリカのゲーム会社)Electronic Artsでは、(たかだか30年しかない歴史ではあるが)既にCEOやなにやらが全て交代しているような状態(=経営に対する思想その他の循環が行われいる状態)だが、日本ではまだそこまでに至っていない。
スタジオとプロデューサーと配給会社がいっしょくたの映画会社のようなもの。
個人の仕事の領域が明確化されていない。
プロフェッショナルなクリエイターにとって、クリエイティブワークに専念させてもらえるような環境にはなっていない。

(水口)(自分は面白さのメカニズムを抽出することに全力を注いできたが)面白さを抽出することが必ずしも正解だとは限らない。
(そういった、一定の道筋が立てられない事が)ゲームの制作論に類するものが出てこない一番の理由。

ゲーム制作においては、ゲームを作ることに対する意思が走り始めているだけの状態で、商業・ビジネス的には大成させられてはいない。
学問的な意味合いではなく、ビジネスのエンジンとして(作品制作を)行える、そういうシステムを、なんとかして作っていかなくてはならない。

ゲーム会社には、回収できるかどうかわからないといって貯め込まれているお金が存在するハズである。
映画では(そういった貯め込まれたものを出しても)なんとかなるが、ゲームでは、そういった事が(幾ら出したら幾ら戻ってくるか)が確定できていないがためにわからない。

(渡辺)ゲーム業界を”まとめる”作業がまだ出来ていないから、それを客観的に判断する機構は作ることができないか。
システマティックなシミュレーションを作ることはできないのか。

(水口)FFくらいの大作ゲームだったらなんとかなるのかもしれないと思う。だが、ゲームは映画と違って技術等が進化しきっていない。
ゲームはまだ進化の途上であり、そこに行き着こうとしている最中。

(直良)FFにおいては、やり方のシステム化がなされていない状態であり、その点でいうと、そのクリエイター一人一人に依存する形で作品が成り立っている。複数のプロダクションがその意見を聞いて、そしてFFという作品を描いて行っている。

(渡辺)その中に「共通言語」の様なもの(意思のすりあわせ機構)はあるのか。

(直良)制作内部では人が行ったり来たりして作っているため、そういう「共通言語」があれば作業はもっとスムースに進むと思う。
また、名プロデューサーが核になってやっていけば、(過去の成功例から)成功度が見積もりやすい。
でも、現状では、FFのナンバーズしか作れないような状況のため、新しいものを作りだしていけるようにしてほしい。

だが、下手に共通言語は増えすぎると、、後の人間はそれの上に乗っかっただけで事が済むため、新しいものを作るのを面倒がる傾向がある。だから、新しい人達は、それらを下敷きにする事から始めないでほしい。そういったものの上に胡座をかいて安住するのではなく、新しいものを作り上げていってほしい。

(渡辺)例えば日本の漫画制作は、そういったものがシステム化出来ずに、描き手一人の技量に頼る形で、その人に負担を強いる形で出来ている。海外ではそういったものはシステム化されていてきっちりしているけれども、だからといってそちらのものよりも日本のものの方が面白かったりする。

(直良)そういった(個人技量に依存する部分とシステム化する事と)そのバランスが非常に大事。(それらを模索していく過程に於いて)時々新しい発想が出てくる。

(水口)面白さの二極化

今のFFとテトリスは同列に比較することができるか。
FC時代は普通に行われていた。では今ではどうか。

インタラクティブ(こちらから手出しを出来る状況)か、そうではないか(シナリオ・ムービー・音楽への特化)
でも、それらでは、演出のしどころが全く違う。

マンガにもっと何かをプラスしたら、必ず面白いものが出来ると言えるか:否。
ゲームはもっともっとよくなるか。
下手したら、(漫画に何かを足して、その漫画の面白みを台無しにしてしまうような)そんな悲劇が起こらないとも限らない。

ただ、○○風などといって固定化するのが当たり前になったら、新しいものにチャレンジするという力がなくなってしまい、ゲームというジャンルは衰退してしまう。そうならないよう、ゲームには、この状況からの修正がまだまだ可能なはず。

(三並)でも、(企画書の)紙切れ一枚で10億、20億出せる会社(スポンサー)はいない。
ポンとお金をかけてどのくらいのものが出来るかは計りかねる

(杉浦)お金がかかる手法のゲーム(CGのきれいなゲーム)を作るがゆえの苦労

会社設立当時(1999年)、PS2が発表された頃で、どんなものができるか不明だった。そんな中、モノリスソフトが取った方法とは、
・予算表をしっかり作る(予算をどのように使ったらどれだけ儲かるか、という試算表を作る)
・スタッフに「こういうものを作る」というのをしっかりとプレゼンする。
(自分はこのやり方で10億(クラスの予算)を2本引っ張ってきたと宣言)

(三並)実際にそういった事(予算表の制作等)を行えるプロデューサーは少ない

(直良)(予算表などが作れないのは)基本的にゲームのスタッフというものは、(グラフィックなりプログラミングなりの)スキルを買われてスタッフになるため、商品企画という観点からアプローチを行えて、且つ現場に対して意見を言えるような人はいない。

(三並)プロデューサは、自分が(=自分の手腕で)儲けた仕事に対しては、(通常の給料とは別に)インセンティブをもらうくらいでもいいように感じる。

(その点で行くと)杉浦氏の場合、自分で会社を起こし、(作品に関して、商品企画的な観点からの)プレゼンが行えていてすごいと思う。

会社にいれば(=会社という組織に所属していれば)、「こうすれば大作になる」というだけでなんとかなるが、それ以上を目指そうとした場合、社内外へのプレゼンが必要となってくる。

(水口)現在、(ゲーム業界で言うところの「プロデューサー」は)プロデューサーとスタジオ経営の両方を同時に任されているような感じ

その点、例えばハリウッドなどでは(経営と制作とスタジオ運営が分業されているように)なるべくいいものを生み出すべく、効率的なシステムが構築されている。

プロデューサーその人が、頭の中で、自分が作りたい作品をどれだけイメージできているか。

制作過程の途中でそれをロストし(=見失い)がちになるので、そうならないよう、(自らを、そしてスタッフを)ナビゲートしていけるかどうか、(元々作ろうと思ったものの)面白さをキープしていけるかどうか、等が大事

客の要求度が上がって行くに従って、プロデューサの仕事が肥大化していく。

その肥大化したサイズの作品を作ろうとする人間が、(その作品を作れるように)進化していけるかが非常に大事。

「これが出来るのなら、これだけお金が出せる」という水準があっていい。

クリエイターの知名度だけで売っていく場合、もしそのクリエイターで一度でも転けたら、その続きは決して行えず、後続で作っていこうとする人間が非常に迷惑をする

(自分たちが作り上げる作品に対し)どこまで(完成度を)見切れるか。
一人の監督がそれをするには限界がある

もっと客観的な視点と主観的な視点との間での評価を繰り返して検証していくことをしていかないと、ゲームのバジェッド(社会的・世間的価値、品質)が下がっていくかも知れない。

(ゆえに、そういった問題について)ちゃんと考えていく必要がある。
「(完成度を)見切る人」と「(作品制作をリードしていく)走り役」、「(作品の基盤を定める)固め役」等といった機能を決めていくことが必要
クリエイティブ部分と経営とを分離していく必要性
アメリカ(映画)では、経営者とクリエイターの権益がうまく別れて成立させられている。

(杉浦)プロデューサ≠クリエイター
           =ディレクター
 プロデューサー:興行的なものを考える人を指す
プロデューサーがクリエイターとして脚光を浴びせられるのは何か違うと思う(現に自分はこの講演においてクリエイターとして呼ばれた事に関して困惑を覚えている)

プロデューサーは社長として、クリエイター(スタッフ)に給料を上げて食いつながせるのが仕事

(水口)ゲーム業界においては、そういう住み分けが出来ていなくて、(プロデューサーの担うべき立場が)自然発生的に出来てしまった部分がある。

(杉浦)映画においては、クリエイティブとプロデュースと配給とを区分して、それぞれ仕事が行われている。

(直良)自分はそういう考え方にはならない。というものも、自分は現状の、権威が存在しないということがこの業界の魅力だと考えているから。
そのクリエイターの色(特色、カラー)で、(クリエイター自身の)名を(誉れを)出していけるというのがいい感じの業界である。
だから、次世代のスタイルは(何が受けるかなどといったことは)想像することができず、それゆえにどんなものが必要となるかわからない、そういうところが自分たちとしては面白い。

(編注:それは、直良氏が、自分の意見をストレートに通すことの出来る結構恵まれた環境/地位にいるからではないのだろうか、という反論が出そうな、一触即発の空気が、刹那かいま見えたような印象を受けた。この時点でシンポジウム全体の雰囲気がなんとなく、巨人スクウェアとその他、(興行的には)常勝組VS負け組(なかなか「勝ちあがれない」組)というような、持つ者と持たざる者の意見対立的に見えてきたような気がする。ただ、真っ向から火種を蒔いたのが、大分前の段階で「大会社の安心した基盤はないけれども頑張って作っている」と発言した杉浦氏である印象も否めなくはないが)

(三並)会社側は(シリーズを重ねている)ナンバーズタイトルに頼って、「なんでそれをもっと早く出さないんだ」等と発言することがある。
別のタイトルを出そうとしても難色を示すことが多い。

(杉浦)クリエイターに対してクール(冷静)だが、クリエイターの作りたい物に対する意見が出せる、クリエイターの作りたい物を理解しつつ、それに対して資金を引き出させられる、そういう立場の人間が必要。(自分は、(クリエイターという立場を一線離れている人間であるため)そういった事が出来る人材である、との売り込み発言も)

(三並)新しいものが考えられなくて、いいものがガクンと減ってしまう可能性が出てくる。

(渡辺)なんだかわからないけれども楽しそうだな、と思える物に対して、会社側がただその直感だけでお金を掛けられるかどうか。例えば自分たちが会社側だとして、クリエイターがそういった企画を持ってきた時に、紙切れ一枚でポンと10億出してやれるかどうか。

(三並)そういった(自由な発想を拒まない)ものを、やらせられるような状態に持っていけるか、(上に立つ自分としては)それが非常に悩み。
「これがダメだったら自分は仕事を辞める」くらいの覚悟を持っているプロジェクトであればやらせようという気にはなる。

(杉浦)モノリスでは「プリプロダクション」制度を導入している。
物を作るための準備期間を設け、それの成果如何で予算を割り振っている。
設定作成などの準備段階ではそれほどお金は掛からないので、その分の投資を必要なだけ行い、その成果を健闘する。
プリプロダクション段階で、どんなものになるかはおおよそ見える。

(三並)モノリスのような新進の会社ではそれが出来るが、(うち=カプコンのように)昔からやっているような所はそうはいかない。

昔は、ゲームは出せばある程度は必ず売れたが、現在ではそういうふうには売れない。

ただ、(モノリスのように)プリプロに大量投資をして、それがうまくいかなかった場合はどうするのか。

(水口)一社だけしか選択肢がないのだとしたらそうだが、自分の所でとにかく作って、他で買ってもらえるシステムにすれば、それが一番安全。

もし「作って欲しい」という会社からお金をもらって作った場合、もしそこで実際に買ってもらえなかった場合、1,000万円でもなんでも返さなくてはならなくなるだろうけど、でも、アイデアは他の所でも生かす事は出来る。

(編注:「そういう真似は、ボクと直良さんにはできないな」と笑う三並氏に水口氏が曰く「それじゃ、会社辞めちゃえば?(笑)」なんて一幕も。)

(三並)結局、「作った」→「売った」な感じがずっと続いている。

(杉浦)プリプロダクションは採算度外視で行ってはいるが、プリプロダクションそのものだけでは儲けることは出来ない。その後、本プロダクションに移行できるだけのものを(会社側から)もぎ取る努力が必要。
1億もらってプリプロダクションしてみせて「それじゃ残り9億よこせ」くらいの感じで。

(直良)スクウェアの場合、まずプレゼン段階で会社側の承認をとって、それから再プレゼンを重ねていき、少しずつ修正しながらリリースしている。


(編注:この「修正」というののニュアンスが、編集していて非常に曖昧な意味だなという事に気付いた。「自分たちの描きたい形に」修正するのか、それとも「(自分たちの路線とは反対方向になろうとも)売れそうな路線」へと修正するのか。これによって、この発言は180度違った意味を持つことになるように思える)


(三並)カプコンの場合、制作過程に対してマイルストーン(どれがどこまで出来たかの指標)を予め作っておいて、それに基づいてのチェックを行う。

ただ、チェックを行う人間は同じ開発スタッフの一員であるため、お互い制作の苦労などを慮ってしまい、その人のスタンス(純粋に思った事、意見)をはっきりさせることが非常に難しい。

(直良)昔、田中氏(編注:旧スクウェアの立ち上げの頃からのスタッフである田中弘道氏の事と思われる)が「面白いかどうかわからないものはとりあえず出してみよう」というスタンスで臨んでくれたので、それが非常にありがたかった。

だが、現在では(わからないけど出してみよう、とわからないからやめておこうという)両極が混じった状態での経営が行われている。

(渡辺)最後に、今後の作品作りに対してどんな態度で臨んでいきたいか。どんなものを作っていきたいかをそれぞれどうぞ。

(杉浦)経営的側面と同時にクリエイターとして、作品に関わることが出来れば、と思っている。

それと、今『メタルオブオナー』という作品が日本で売られる事に関して、そしてそれを日本が受け入れようとしている事に対して非常に関心を持っている。
(編注:杉浦氏によれば、『MOO』では、アメリカ兵が日本兵を殺す場面が、何の悪びれることもなく出てくるらしい。ゲーム版『パールハーバー』といったところか)
日本人が逆に真珠湾攻撃のゲームを作ったら、向こうの人はどう考えるか、それを考える事は出来るのか。

そういった点では、ゲームという媒体ではないかもしれないが、インタラクティブな作品として、自分なりの『戦争』を体験して、自分の考え方を提案させるような、そんな作品を作りたい。

(直良)ゲームでも絵でも、とにかくチャレンジを続けていきたい。

(三並)自分の作りたいと思うゲームを理解してくれるスポンサーを手に入れたい。

(水口)(杉浦氏が言っていた)プロデューサー=社長という考え方はズキュンと来た(←心に衝撃を与えられた、と表現したいらしい)。
今、(自分の作ろうとしている作品を理解し、そのために動いてくれる)優秀なプロデューサーが欲しい。

ある意味ユビキタスな、気持ちのよい作品が作りたい。

主役は作家ではなくユーザー。

でも、ユーザー主体のネットゲームではメッセージを語ることが難しい。

(作家主導とユーザー主導)二つの方向性のうち、自分はどちらかというと作家性のあるものを作っていきたい。

(河原敏文:TIGRAFゼネラルプロデューサー)
アメリカでの映画作りの手法では、
 プロデューサーはブレーキ。言う言葉は常に"Don't do it!"
 ディレクターはアクセル。言う言葉は常に"I want!"

でも、インディーズの監督は、他人にブレーキを踏んで欲しくないから、その役割を両方自分で抱え込む。その代わり、資金も自分でちゃんと集めてくる。

ハリウッドの映画史が刻んできた流れは、日本のゲーム界でもいずれは起こる。

会社という組織の中に、プロデューサーもディレクターもスタッフもキャラクター(役者)も全部存在していた時代から、スター役者が会社に対して不満を持って、独立して役者たちだけで会社を立ち上げた、チャップリンのようなUnited Artist社のような形態が起こってくるように、クリエイティブ=エージェンシーがハリウッドを劇的に変えた。だがそれゆえに、ファイナンス的な方面を担う必要の無かった彼ら役者も、こういう形態を起こすことによってそれを必要とするようになった。

現在のゲーム業界においては、観客はいて、その売り上げが評価を形成しているけれども、批評を行う環境がない。

今のゲーム評論家は、自分の好き好みだけでゲームを批評しているという点において、批評家としては非常にレベルが低すぎるものでしかない。
だが、ゲーム界の今後の成長において必要なのは、(固定で作品を見守る)観客、そして、(多くの人の視点を代弁するような、ある程度の客観性を兼ね備えた)批評である。







■1:モノリスソフトの世界 ■

 □1’:モノリスソフトの世界 □

■2:スクウェア・エニックスの世界 ■

■3:カプコンの世界 ■

■4:水口哲弥の世界 ■

■5:スペシャルシンポジウム ■

参考:TIGRAFに関する報道特集WEB記事

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