忍者ブログ

翠輪堂-日記-

文月あずさ@JADERINGSもしくはAzusa-Fの趣味的日常記録/不定期更新

EP3おめでとりにかこつけて眼鏡破損を改めて考察してみんとす。
おまえそれ20周年のおめでとりにやることか、と突っ込まれればハイそれまでなんですけど。
EP2立ち上げる余裕がなくて誠に遺憾ながらシナリオブックからの引用
EP2のシオン眼鏡破損、割と何度かつぶやいているような気がするけど、本来描いていた構想を壊さざるを得なくなった象徴的メッセージじゃないかなあ、と、今更ながら思ってる(憶測じゃがも)

「ごめん、どうにもならない事情で壊すしかなかった」という、私たち読み手へ伝えた、苦し紛れのメッセージ

そういう観点でEP3を見ていると、KOS-MOSvsT-elosの観覧シーンと14年前ミルチアでの変装、あれは、本来構想そのままだったのかな?と思わなくもなくて。
戦闘観覧シーンはドクトゥスに映像を送る必要があったから、という話の流れがあるからいいとして、私が気になってるのは14年前ミルチアで偽装の為に眼鏡付けるシーン。あれって「子シオンが眼鏡っ子なのに眼鏡かけたら面影出ちゃうから(特にスオウに対しては)偽装にならなくない?」と思っていたんだけど、もしそういう意図だったとしたら自分としてはなんか納得がいくのよねぇ。
あの重篤患者施設潜入イベント周りって、台詞回しのテンポとか、イベントビューアで見直していても、なんか少し他のシーンと違う気がする。どこがどう、というのは未だに言語化難しくて歯がゆいんだけれども。イベントシーン全体を覆う空気感が、その後の、例えば後のテスタメントケビンと対峙しているあたりとかとはなんか違うのよね。なんか、とかしか言えないのホントにもどかしい。
でも私は、14年前ミルチアでの展開とか会話の流れとか、なんか自分の中ですごく好みだった。EP3が出るまで「あの時はどうだったんだろう」ってすでに出ている物語を照らし合わせて何度も想像して反復して物語に迫ろうとしていたからかもしれないのだけれども、自分の想像を物語がきれいに塗り直してくれるのをとにかく没頭して楽しめていた。EP1の時のような「まだピースは足りないけれどなんだか物語の枝葉がちゃんと繋がっている」感じがすごいしていたような気がするの。スオウにあっさり眼鏡偽装を見抜かれていたところなんか特に。

実際のところは中の人たちのみぞ知るし、中の人たちはこうやって憤っている子供な私と違って大人なので多分それはこのままだと墓場まで持って行くんじゃ無いかと思ってる。
外から見ている身としては、いつまでも残る深い棘。
(とはいえ、このままビッグになって回顧録出して欲しいとは常々願ってるんですわ。4Gamerでの原田Pとソーカントクとの対談記事もそうだけれど、史料として本人たちの言葉に勝るものはないから。振り返らずに突き進む今の姿を尊びながらもね)

***

ゲハ的な当時の状況を照らせば、モノリスをナムコに引き入れた中村社長がナムコの社長職を退き会長職になり、経営の舵は高木社長へとバトンが渡って、激しい変化が生まれた時期、なのよね、EP1→EP2。
そして(個人的には)ナムコが、ナムコらしさを急速に失っていった時期。
あれ以降、私はナムコの作品に遊びをクリエイトする感もエモーショナルが爆発する感じもしなくなった。『塊魂』は最後のナムコゲー。原口P? 知らない子ですね(←ひでぇ)
ナムコの主力商品であったアーケード関連の売上実績とか分析もしたりしたら、もっと浮かび上がるものが出てくるかもしれないけれど、私は、あの時点で、FC時代から私がドキドキをもらっていたナムコはいなくなったと思っているよ。ナンジャタウンがテーマパークでなく餃子なフードパークになったのも含めてね(ナンジャタウンにあるイタリアントマトのナジャブポットパイは好きで行くたびお値段に震えながら食べてた学生時代だったが、あれは「あのテーマパークのキャラがポットパイになってる」という時点で十分エンターテイメントだったんよ)

閑話休題。
そんな中、翻弄されながらも物語をきちんと終焉(終演)へと導いて、いつまでも私たちが物語に囚われることを出来うる限りで防いでくれたゼノサーガ。その姿は広げた風呂敷広すぎやろ!となりつつDisc2を紙芝居にしてでも閉めてくれたゼノギアスと同じなのかもしれない、と、今にしてみれば思う。
……当時は確かにフンゴフンゴしてましたよ!だって話広げっぱなしなんだもん!それとあの世界《フィールド》で遊ばせてくれないんだもん!!(血涙)
でもね、もっと描きたかった物語を(おそらくは血涙を流しながら)閉め切ってくれたその努力には本当に感謝しかない。描きたかったろうに切り捨てた物語の端々は確かに見えるのだけれども、でも「終わってくれた」からこそ、というのは、今こうやって時を経てきた今、常に感じている。
私たちが亡霊のように囚われることよりも、とりあえずの幕を下ろすことで次に描いてくれる新たな物語に飛び込めるようにしてくれたんだと。
そう思うことで、未練を少しでも軽くすることができるから。

まぁアーカイブ化して配信して今の(それこそゼノブレから入った人たちにも)物語を見せてほしいなあというのは強くあるのですが、演者さん数名がすでに鬼籍であることや、アウターファイルやミッシングイヤーも抜かした状態でのアーカイビングは片手落ちになるだろうから、そこをどうするかが課題だなあと。……今のバンダイ(※ナムコではない)がそこに収益性を見いだせるかな?という点(懸念/諦念)が何より強いんだけどな。
……ていうか、パイドパイパーが復刻したのとか何の奇跡ですか! 携帯電話向けゲームという特殊さも去ることながら、過去の作品をきちんと遺す使命感でいろいろな作品の復刻に取り組んでくださってるG-MODEさん、アンタホント神だよ!

……と、Ep3の20周年に向けての予約投稿を(いつも通り)ダラダラ終えたところで、自分の過去メモの中に、こんな謎メモがあるのを発見。


■Wikipedia
眼鏡キャラクター - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BC%E9%8F%A1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC
アイザック・アシモフは『アシモフの科学エッセイ』中でこの演出のことを“ハリウッドで使い古されたネタだ” “知性の象徴である眼鏡を捨てることを美化するのは、無学を礼賛する愚劣極まりない行為”と批判している。
■BuzzFeed
「メガネを外すと美人」の法則 1950年代ハリウッドにすでにあった
https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapan/1950
「アイザック・アシモフの「パッとしない女の子がメガネを外すとかわいくなる」ことについての批評が最高だよ。1956年のものだけれど。
■日本マンガ学会第19回報告
女性の近代的自我の芽生えと少女マンガの物語構造―眼鏡を再びかけ直すことの弁証法的意味 | 眼鏡文化史研究室
http://meganeculture.boo.jp/2019/08/18/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E8%8A%BD%E7%94%9F%E3%81%88%E3%81%A8%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E6%A7%8B/
たとえばアメリカではSF作家のアイザック・アシモフが、眼鏡を外して美人になるなどということは物理的にあり得ないと主張し、そんな愚かなことを主張する人々は精神水準が低いと訴えています。(アシモフ『生命と非生命のあいだ』)。
え、マジですか、アシモフまで話飛びますか。

しかし、あのアシモフがそう言っていたとなると、見方が完全に変わってしまう。
なんとなくの象徴じゃない。
シオンの、物語の掘り下げを、かなぐり捨てなければならなくなった、明らかな「メッセージ」だったのではないか、と。

…まぁそれもあくまで読み手の「憶測」ではあるけどね。
単なる偶然の可能性はある。
知らず「言霊」に引き寄せられた可能性も。



……
…………
……………………
ううーむ、これからもグノーシスのように未練たらたら現世に彷徨う私はいそうですね。コンゴトモヨロシク……。(未練という文字が焼印されてるMAGをばりぼり食いながら)


(▲『アシモフの科学エッセイ』シリーズ、流石に古本しかない。電書もないか。
探してたついでに「星新一 訳」とかいう謎アシモフ本見つけたので、これも「いつか読むリスト」に投入▼)

拍手

PR

コメント

コメントを書く