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翠輪堂-日記-

文月あずさ@JADERINGSもしくはAzusa-Fの趣味的日常記録/不定期更新

27周年でゼノギアスに見る夢
いや~リベサガ、いいっすねぇ…
あ、↓この子は旦那皇帝でファイナルクリムゾンギャラクシーをキメた後のホーリーオーダーのマリアちゃんです。

聴講のみの状態で語るのはゲーマーとして大変申し訳ないなあと思いつつも、それでも聴講だけでかなり楽しませてもらって「今からやりたいから精神と時の部屋よこせ!」な身ではあるけれども、ロマサガ2R/リベサガは「スクエニ、ちゃんとやればこういうリメイク出来るんじゃん」という印象が何より強い。
遥か昔リアタイで友達がやっているのを見たことがあったり、旦那が強火力ロマサガ2信者なのでSwitchで買った旧作版のプレイ状況はある程度見させていただいてまして、コッペリアが役目を終えて城の倉庫に寝てるところとか、(セーブ分けした状態での)「アリだー!」とかだいたいのところを見てる訳なんですが、あの当時のスクウェア神ドット絵以上のものを思い出補正無しに現代の自分たちが純粋に楽しめるレベルでお出しされる日が来るなんて……。
何よりキャラ可愛いよね。「強過ぎちゃってごめんネ……」とか「勝つまで殴れば負けません!」とかの追加要素が、意外に過去作の思い出と喧嘩しないんだわ。変にリアルキャラにしないでイラストを起こして動かしてるのが大きいかなとは思ってる。
システムが元々挑みがいあるから、っていうのも大きいのかなあ、とは思うけど、そこを補う進化した3D絵が、あの神ドットから想像していたアバロンを立体で立ち上がらせたとしか言えない出来で、なんかすごいなんかすごい(語彙力)。
デフォのカメラが近すぎるので脇で見てると画面酔いしやすいのと(それでもDQ11Sよりはマシ)、あとは抜刀ターゲッティングをミスりやすいの位かな、不満点。飛んでる奴とか捕まらんのでちょっとイヴァリースから《投石》借りてきて欲しい。TOZANは贅沢言い出すと切りが無いから割愛w
FF7Rも、思い出迷子というより、純粋に今の時代のゲームとして楽しまれているのを見てると、「今の時代にリメイクに挑む価値はあったんだなあ」とは思うのね。こちらはプレイどころか生身で見てないんでこれ以上の事は言えないけどさ。……あ、でもミニゲームはなんかいっぱいで大変そうだから自重して差し上げて。

こういういい例見ちゃうと、もしこういう雰囲気でゼノギアスがリメイクされたらどうなるのかなあ、なんて夢を見てしまう。

見てしまう、けれど。

ニサン十字のペンダントの形が改変されて、フェイのアニメ描写部分は勿論の事、ニサンの街からマルーちゃんの衣装からEP4カレルレンの僧兵服含めて造り直しを受けたゼノギアスを私は認められるだろうか……という自問自答は私の中で確かに在る。

たかがデザイン、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、多分変えられてしまったら、それが出てくるシーンのたびに「あ、変えられてる……」という気持ちを抑えられないと思うのね、私は。
で、きっとモヤモヤしちゃう。

私が見たゼノギアスと違っちゃってる……って。

DQの2000年代リメイクで、教会のシンボルが十字架じゃなくなっているのがなんとなく気になっちゃう人間だもの。

昨今の世の中の流れ、考えれば考えるに、今の某合州国の狂信者さんたちのものの見方に合わせて物を売ろうとすると、かなりいじらないといけないんじゃないかなあって心配になる。
それって私が見たい「かつて見た景色」になるんだろうか?
「Beyond the Logos」ですら受け入れられない国ですぜ?

ゼノブレが、海を渡った途端名前が変わっているものがあまりに多いのを見ていて、尚且つ海外のファンが「日本語ではこうだよ」と頑張って食らいついて解説を作っているのを見ていると、私たちの文化で使えるものは、海外で使えないものが多すぎるんだなあ、ってため息をついてしまう。
なじみのない音だから、って理由だけじゃ無い排除が見え隠れしているのを感じる。
あの物語を作った人たちが選んで魂を吹き込んだ名前が、否定されている。

でも、その「グローバリズム(笑)」を押しつける人たちも受け入れて貰えるものじゃないと、今の世界でゲームは売れない。
日本人が大丈夫なものだけでは勝負出来ない世界になっている。
年明けにやってたNHKスペシャル『新ジャポニスム 第一集 MANGA』で、日本の漫画文化が日常に縛られた世界の人たちの意識を変えていく【解放区】なんて話があったけれども、それはMANGAを好む人たちの中に未だ収まっている概念であって、世界/世間全体としてみればそうでもないんじゃないかな、と思わなくもないのよ。
娯楽なんだから、not for meに踏み込んでくる必要なんてないのに、勝手にずかずか踏み込んで荒らしにくる人たちに言い訳しながらでないと、自由にものが作れない。そうにしか見えない現状が広がっているという漠然とした不安がある。

だからね、その不自由の中、あれだけ豊かな世界を生み出してくれている多くのゲームクリエイターさん達には感謝の二文字しかない。ホントに。
でも、そのために飲み込んだものの中にあったはずの作り手のほとばしる情熱そのままをこそ飲み干したいという欲望も、受け手として確かにあるの。

……多分その欲望、私のゼノギアス好きを支える根幹に通じるものだと思っている。
話を何とかまとめるために、あの形になってしまったDISC2を見てしまって以来の、渇望DISC1の話がそっくりそのままで、それが今の技術のリファインを受けて、より臨場感と迫力と感動を持って目の前に表れてくれて、DISC2の内容もゲームの形を取ってコントローラを握りながら追いかけることが出来るのだとしたら、CERO-Dだろうがなんだろうが受け入れられるかもしれない。しれないけれど。
(いや別に閣下の黒ぱんとかそういう話では無くて)
少し骨の抜けさせられたゼノギアスを、私は再び好きになれるのだろうか?

……わからないね。
実際のものを見て手のひら返しできることを祈るのが、今の私のせいいっぱい。



……
…………
………………いやー、やっぱりこじらせてますね、自分w
それだけ心に刺さった作品だもん。仕方ないかな。

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